富士五湖はなぜあの形なのか(剗の海・貞観噴火・湖底遺跡から読む富士北麓の古代)
- ⏱ 約19分で読めます - 👁 … viewsきっかけは前の記事でした。自宅の地震計の揺れを調べる過程で、土木研究所の KuniJiban(国土地盤情報検索サイト)という、全国のボーリング記録が地図つきで見られるサイトの存在を知りました(自宅の地震計が公式より1階級高く揺れた理由を、道路工事のボーリング記録まで遡って調べた)。
これが面白くて、用もないのにあちこちの地面を覗いて回るようになりました。その流れで青木ヶ原樹海あたりのデータを見ているうちに、ふと富士五湖の水深が気になったのです。本栖湖と西湖は飛び抜けて深いのに、ほかはせいぜい十数メートルしかありません。
剗の海(せのうみ)がかつて一つの湖で、貞観噴火の溶岩で分けられた、という大筋は前から知っていました。ただ、精進湖がやけに浅い理由を、私はずっと取り違えていました。「溶岩で堰き止められた湖から溢れた水が、低いところに溜まって精進湖になった」くらいに思っていたのです。ところがボーリング記録を並べてみると、話はまるで逆でした。そこから引っかかって、地質・考古・古代史を順にたどっていくと、富士北麓という土地の素性がかなりはっきり見えてきました。その記録をまとめておきます。
まず数字から(深い湖と浅い湖)
最大水深と湖面標高を並べると、五湖の性格がきれいに二分されます。
| 湖 | 最大水深 | 湖面標高 |
|---|---|---|
| 本栖湖 | 約121.6m | 900.0m |
| 西湖 | 約71.7m | 900.0m |
| 精進湖 | 約15.2m | 900.0m |
| 河口湖 | 約14.6m | 830.5m |
| 山中湖 | 約13.3m | 980.5m |
深いのは本栖湖(約122m)と西湖(約72m)の二つ。精進湖は名前の印象に反して、むしろ浅い部類です。そして注目したいのが標高で、本栖・精進・西湖の三湖がそろって 900.0m で一致しています。河口湖(830.5m)と山中湖(980.5m)だけが大きく外れます。この「標高の一致」が、最初の手がかりになりました。
本栖・精進・西湖は、元はひとつの湖だった
湖面標高が同一であること、しかも三湖の水位変動が連動することから、本栖・精進・西湖はかつて 「剗の海(せのうみ)」 と呼ばれる一つの巨大な湖だったと考えられています。透水性の高い溶岩で隔てられているだけで、地下水流動系としては今も上流側の西湖から精進湖、本栖湖へと事実上つながっています。三湖が同じ900.0mで上下動するのは、「元はひとつの器だった」名残というわけです。
分割は二段階で起きました。まず古い段階の溶岩流入で本栖湖が先に分かれ(年代には諸説あり、近年の研究では現在の本栖湖につながる湖が成立したのは約8,000〜10,000年前とされる。少なくとも本栖湖と精進湖の間には貞観より古い溶岩が確認され、864年より前に分離していたことははっきりしている)、次に 貞観大噴火(864年) で流れ出た膨大な青木ヶ原溶岩が剗の海の大半を埋め、残った部分が西湖と精進湖になりました。青木ヶ原樹海は、この埋め立ての跡そのものです。
そもそも、なぜ剗の海は深かったのか
精進湖の話に入る前に、ひとつ引っかかったことがあります。剗の海(生き残りの本栖湖は最深121.6m)は、なぜそんなに深い湖だったのか。地図で周りを見ても、水深120m分に相当するような深い谷は見当たりません。掘れば溶岩、というのっぺりした台地が広がっているだけです。
調べてみると、この深さは「溶岩が掘った穴」でも「もとからあった深い谷」でもありませんでした。鍵は、富士山が積み上がってできた山だという当たり前の事実です。富士山の中心の真下、噴火が始まる前の地面(先第三紀の基盤)は、断面図で見ると海抜ほぼ0m。そこに先小御岳・小御岳・古富士・新富士と噴出物が積み重なって、3,776mまで成長したのが富士山です。
本栖湖は、その北西の山麓にあります。御坂山地の南側に、富士山から流れ出た溶岩が何度も押し寄せてできた 堰止湖 です。ポイントは、溶岩の積み増しが場所によって不均一だったこと。ある面までは溶岩が積もって平らな土台(のちの湖底、標高780mあたり)ができ、その後、周囲だけがさらに900m以上まで積み増されて壁になりました。間の凹地には新しい溶岩が届かず、低い面が取り残される。この 「周りは高く埋まったのに、ここだけ低いまま残った」段差(約120m)に水がたまった、と考えると深さの説明がつきます。
掘った穴ではなく、周囲が埋め立てられる中で取り残された窪み。だから湖底の真下を掘っても、土の地面ではなく古い溶岩が出てきます。そして、この「いったんできた深い器」を、後の溶岩がどう埋め直すかが、次の精進湖の話につながります。
ひとつ断っておくと、この段差の話は推論です。本栖湖が堰止湖であること、富士山の基盤が海抜ほぼ0mであること、湖底の直下も溶岩であることは、それぞれ資料で確認できる事実です。ただ「だから水深120mは、周囲だけ積み増されて取り残された段差だ」と名指しで結論づけた論文を見つけたわけではありません。手元のデータを並べて筋を立てると、地形の理屈としてはこう考えるのが自然、というところまでです。どの噴火段階の溶岩がこの面を作ったか、までは特定できていません。
精進湖はなぜ浅いのか(湖底が「底上げ」された)
ここで最初の謎、「同じ剗の海の生き残りなのに、なぜ西湖は72mで精進湖は15mなのか」に戻ります。冒頭で書いたとおり、私は「溢れた水が低いところに溜まって精進湖になった」と思っていました。つまり水のほうが主役だという見立てです。ところが答えはボーリング調査が出していて、主役は水ではなく溶岩でした。富士砂防事務所などが精進湖と西湖の中間地点(かつて剗の海があった、現在は樹海の下)で深さ160mまで掘った結果、噴火前の剗の海は東西8km以上の細長い湖で、湖面標高894m・水深約70mだったと推定されました。
これを標高で並べると、何が起きたかがはっきりします。
| 湖面標高 | 湖底の標高 | 水深 | |
|---|---|---|---|
| 剗の海(噴火前) | 894m | 約824m | 約70m |
| 西湖(東の残り) | 900m | 約828m | 71.7m |
| 精進湖(西の残り) | 900m | 約885m | 約15m |
西湖の湖底(約828m)は、剗の海の元の湖底(約824m)とほぼ同じ。つまり 西湖は剗の海の深い部分をほぼそのまま受け継いでいます。一方、精進湖の湖底は約885mと、元より60mも高い。青木ヶ原溶岩が精進湖側では湖底直下まで及び、約60m厚の溶岩が湖底を底上げして、薄皮一枚ぶんの水(約15m)だけを残しました。これが精進湖が浅い理由です。
ポイントは動きの「向き」です。精進湖は「陸地が沈んでできた」のではなく、もともと水面下にあった湖底が、溶岩で下から埋め上げられた のでした。水位も894m→900mと6mほど上がっていますが、深さを支配しているのは水位の+6mではなく、湖底の+60mのほうです。精進湖の南岸には、その埋めた本人である青木ヶ原溶岩流が今も黒い露頭として顔を出しています。湖底を60m持ち上げた溶岩の縁が、そのまま岸になっているわけです。
河口湖・山中湖は「別系統」
この剗の海グループに、河口湖と山中湖を含めてはいけません。両者は別の噴火・別の水系に属します。
河口湖は標高830.5mと一段低く、溶岩流が谷を塞いで古忍野湖などができ、その堰き止めで約1万年前に形成されたと推定されています。山中湖はさらに別で、鷹丸尾溶岩が桂川を堰き止めてできた堰止湖です。富士五湖で唯一、自然に流れ出す河川(桂川=相模川の源流)を持つ「出口のある湖」で、地下で互いに通じる剗の海グループとは成り立ちが根本的に違います。
この二つは年代の幅も大きい。河口湖が約1万年前ごろの古い成立とされる一方、山中湖を堰き止めた鷹丸尾溶岩は、産総研系の資料で 延暦19〜21年(西暦800〜802年) の噴火に年代が当てられています。約1,200年前、貞観噴火(864年)で精進湖と西湖が分かれるより、わずか60年ほど前というだけの、富士五湖でいちばん若い湖です。
注:延暦噴火と『宮下文書』は別の話 このあと「忍野に湖はあったのか」のコラムで、『宮下文書』の「延暦噴火で宇津湖が二分された」という伝説を退けます。ただ、ここで言う「延暦噴火(800〜802年)で鷹丸尾溶岩が出て山中湖ができた」ほうは、産総研系の資料が支持する地質学的な事実で、宮下文書の壮大な物語とは別物です。延暦に噴火があったこと自体は確かで、否定されているのは「その噴火が巨大な宇津湖を一発で二分した」という筋立てのほうです。
深掘り:湖底の標高をそろえて並べてみる
ここからは、各湖の数字を自分で並べて気づいたことの記録です。なお、この節の「深さの解釈」はデータをもとにした私の推論で、定説として確立しているわけではありません。
各湖について「湖面標高 − 最大水深」で湖底の標高を出すと、こうなります。
| 湖 | 湖面標高 | 最大水深 | 湖底の標高 |
|---|---|---|---|
| 本栖湖 | 900.0m | 121.6m | 約778m |
| 西湖 | 900.0m | 71.7m | 約828m |
| 河口湖 | 830.5m | 14.6m | 約816m |
| 精進湖 | 900.0m | 15.2m | 約885m |
| 山中湖 | 980.5m | 13.3m | 約967m |
面白いのは、本栖(778m)・河口(816m)・西湖(828m)の三つの湖底が、おおむね780〜830mの帯に収まることです。湖面の標高(本栖900m、河口830m)はバラバラで、しかも成立の年代も水系もバラバラ(河口湖は約1万年前の別系統、本栖・西湖は剗の海グループ)。なのに、湖底だけはそろってくる。私はこれを、富士山の溶岩で埋め立てられる前の北麓の地表が、だいたいこのくらいの高さで広がっていた、その名残ではないかと見ています(これも推論です。湖底の標高が近いことは数字から言えますが、それが「同じ古い地表面」を意味すると断定はできません)。
逆に言えば、湖底がそろっていても、湖が今の形に分かれた年代は大きく開いています。河口湖の約1万年前から、山中湖の約1,200年前、精進湖・西湖の864年まで。富士五湖は「同時に五つできた」のではなく、共通の低い土台の上で、別々の噴火が別々の時期に水をせき止めた結果の寄せ集め、というのが数字を並べて見えてきた姿です。湖底の標高(地形の古い土台)と、分かれた年代(溶岩イベント)は、別々に読む必要があります。
湖底に沈んだ縄文と古墳(二つの遺跡)
溶岩と水位上昇は、湖の形だけでなく人の痕跡も封じ込めました。象徴的な遺跡が二つあります。
本栖湖底遺跡(溶岩に沈んだ集落)
本栖湖の南東岸、岸から沖へ50〜100m・水深5〜10mの浅い水域に、縄文時代と古墳時代の土器が水没した状態で分布しています。1998年に旧上九一色村教育委員会が水中考古学調査を行い、多くの土器片を引き揚げました。大半は古墳時代前期初頭、5世紀前半頃のもので、壷形土器・高坏の脚部・甕形土器などが報告されています。
解釈は、ここまでの「溶岩→水位上昇」の話と直結します。遺物だけが見つかり遺構が伴わないことから、湖畔の集落が一度廃絶し、のちに溶岩流が本栖湖に流入して水位を上昇させ、遺物を水没させた(あるいは水辺の祭祀)と推測されています。その水没を起こした溶岩こそ、貞観噴火の青木ヶ原溶岩流です。土器が溶岩の直上に乗っているという出土状況が、「溶岩が来て→水が上がって→水没」という因果を地層でそのまま見せています。
船津浜中村遺跡(溶岩に埋もれた縄文)
もう一つは性格が逆で、水没ではなく溶岩に埋められた陸の遺跡です。河口湖南岸の船津地区にあり、縄文時代前期から中期(およそ6,000〜4,500年前)の遺物を伴う遺跡を船津溶岩が覆い、河口湖南岸を堰き止めて現在の河口湖の形ができた、とされています。
地質学的に効いてくるのは、遺跡と溶岩の上下関係そのものが年代の物差しになる点です。縄文の生活面が溶岩の 下 にある以上、河口湖を今の姿に堰き止めた事件は、この縄文遺跡より新しいと確定できます。本栖湖底遺跡が「溶岩の直上に土器」なのに対し、船津浜中村は「人の痕跡の直上に溶岩」。層序の重なり順がちょうど反対で、並べると面白いです。
忍野に湖はあったのか(伝説の宇津湖と、科学の古忍野湖)
忍野あたりにも湖があったという話は、文献上たしかに存在します。ただし、それは性格の異なる二系統の文献で、両者は食い違っています。
ひとつは伝説・古文書系です。旧家に伝わる『宮下文書』には、当地一帯がかつて 宇津湖 という巨大湖で、800〜802年の延暦大噴火の鷹丸尾溶岩で二分され、山中湖と忍野湖に分かれた、という伝説が記されています。忍野八海は、その忍野湖が干上がった後に残った湧水池というわけです。観光地としての忍野八海の由来も、たいていこの筋立てで語られます。
コラム:『宮下文書』は今日では偽書扱い
念のため補足しておくと、『宮下文書』(富士古文献)は現在の学界では偽書とされています。1883年(明治16年)に富士北麓・小室浅間神社の宮司家に「発見」されたとされる文書で、貞観噴火の記録なども含む一方、その大半は、神武天皇よりはるか以前に富士山北麓に「富士高天原王朝(富士王朝)」という超古代王朝があった、と主張する内容です。近代以降の語彙が混じり、神武即位日を2月11日(明治6年に制定された日付)とするなど、明治以降に書かれた痕跡が決め手とされます。もともと伝わっていた伝承に、明治・大正期の宮司が自社の地位向上のため脚色・創作を加えたのではないか、という見方もあります。
この文書を掲げる「不二阿祖山太神宮」を検索すると、いわゆる「ムー」的な超古代史の世界に行けます。地史としての宇津湖の話とは切り離して、読み物として楽しむのがよいです。 興味があればkindle本に「神皇記」という本もあります(確か無料)。大正時代に書かれたもので、富士山古代王朝の話と貞観の大噴火、徐福伝説など色々とバラエティに富んだ話が読めます。
史料の信頼性はコラムのとおりですが、それとは別に、地形そのものが宇津湖一枚岩説を退けます。仮に山中湖(980m)も忍野も河口湖(830m)も一枚の宇津湖だったとすると、同じ水面ではとても説明できない大きな標高差が生じてしまい、物理的に成立しません。先に剗の海で「等しい標高=つながっていた証拠」と読んだのと同じロジックの裏返しです。実際、火山学者・小山真人は、忍野盆地と山中湖を一つの湖と見るには現在の流出口よりかなり高い水面が必要になるのに、その痕跡がない、と指摘しています。山梨県環境科学研究所のボーリング調査もあわせ、巨大単一湖「宇津湖」の存在は否定されています。
一方で、湖が実在したこと自体は地質・化石が裏づけています。国立科学博物館・藤山家徳「富士山北東麓 古忍野湖の地質と化石」は、湖底堆積物と化石から 古忍野湖 の存在を示しています。忍野八海が国の天然記念物である理由づけの一つも、「かつての忍野湖を涵養していたことを暗示する貴重な自然地質資料」という点です。つまり、こう整理できます。
- 湖が忍野にあったこと自体は確かです(古忍野湖は実在)。
- 「巨大な宇津湖が一発で二分された」という壮大版は、ソースが『宮下文書』寄りで、学術的には否定方向です。
「伝説の宇津湖」と「科学の古忍野湖」は、別物として読み分けるのが正しいでしょう。
縄文〜平安初期、富士北麓はどんな文化圏だったか
ここまでを踏まえて、最後に大きな問いを置きます。貞観噴火が一帯をリセットする以前、富士北麓はどんな世界だったのか。一言でいえば、孤立した山間の僻地ではなく、内陸(甲斐)と太平洋(駿河・東海)を結ぶ「回廊」であり「境界」でした。時代ごとに重心が動きます。
縄文:中部高地文化圏の南縁、かつ東西の交差点
八ヶ岳から富士山にかけての中部高地は、約5,000年前の縄文中期に日本でいちばん人口が多く、縄文文化が栄えた地域でした(釈迦堂遺跡では土偶だけで1,116点)。富士北麓最大規模の池之元遺跡(富士吉田市)は、縄文草創期から平安まで連続する複合遺跡で、中部山岳系の「表裏縄文様土器」と南関東系の「撚糸文土器」が共伴し、二つの文化圏の中継点だったと分析されています。胎土に地元にない花崗岩を含む土器もあり、よそとの行き来も見えてきます。富士山の南麓(駿河側)でも富士市域に90以上の縄文遺跡が分布し、富士山を北からも南からも縄文人が取り囲んでいました。当時の湖は、今よりはるかに広かったのです。
年代を重ねてみると、これは想像以上に古い話になります。現在の本栖湖につながる湖が成立したのは約8,000〜10,000年前(縄文早期)とされるので、縄文前期(約7,000〜5,500年前)の時点で、北麓にはすでに湖がありました。本栖湖がまだ分かれる前の、剗の海に近い大きな一つの湖だったとみられます。貞観噴火が剗の海を割るのは、それから数千年も後のこと。縄文人が見ていた北麓の水面は、五つに分かれた今の富士五湖ではなく、もっと大きな湖だったはずです(ただし当時の正確な広がりを示す資料までは確認できていないので、規模はあくまで「剗の海に近い状態」という見立てです)。
古墳:ヤマト文化が東海から甲斐へ流れ込む通り道
甲斐(甲府盆地)は、4世紀後半に東海地方経由で畿内色の大型古墳(甲斐銚子塚古墳など)が築かれ、ヤマト王権の東国進出拠点になります。そのヤマト文化の流入路が、まさに富士山の西麓を抜ける中道往還でした。甲府盆地から右左口峠を越え、精進湖・本栖湖の東岸をかすめて駿河国(現在の富士市あたり)へ下る、甲斐と駿河を最短で結ぶ道です。東海道が海沿いを東西に走る幹線だったのに対し、こちらは内陸の甲斐へ分岐する南北の支路にあたります(近世には駿河湾で揚がった魚を一昼夜で甲府へ運んだのもこの道でした)。沿道から畿内的特徴の遺物が出ることから、この道は東海地方からの古墳文化の流入路と考えられています。本栖湖底遺跡の5世紀の土器は、この甲斐⇄駿河ルートを行き交った人々の痕跡として読めます。
律令期:官道が湖の間を貫き、馬を産する
奈良〜平安初期、この回廊は国家の道路網に組み込まれます。古代官道「甲斐路(御坂路)」は東海道の支路で、駿河国の横走駅から籠坂峠(山中湖村)を越え、忍野を抜けて河口駅、御坂峠を経て甲斐国府へ至りました。河口湖のほとりに河口駅という正式な駅が置かれていた点が象徴的です。さらに甲斐は名馬の国でもありました。『続日本紀』天平3年(731年)には甲斐国の神馬出現が瑞祥として記され、「上黒駒」のような馬にちなむ地名も残っています。冷涼で稲作に不利な裾野は、逆に馬を育てる牧として価値を持ちました。
平安初期:畏れの対象としての火の山
最後のレイヤーが信仰です。貞観以前の富士山は、優美な聖地というより荒ぶる火の神でした。噴火災害の最古の記録は8世紀に遡り、人々は火の神・浅間神に鎮火を祈るため、山麓を仰ぐ「遥拝」を行い、甲斐・駿河の両国に浅間神社を創建していきました。平安初期の都良香『富士山記』は、活火山の噴煙を白衣の美女が舞う姿と描いています。
そして物語の締めが貞観噴火そのものです。864年の報せが平安京に届くと、朝廷はこれを神祭りの怠慢と捉え、駿河に鎮謝を、甲斐国司に奉幣解謝を命じ、甲斐国八代郡に浅間大神の社殿を建てました。それが河口湖町河口の河口浅間神社とされています。溶岩が湖を割った物理イベントが、そのまま国家規模の宗教的応答を引き起こし、その舞台が河口湖畔でした。地質・交通・信仰が一点で交わる瞬間です。
まとめ(所属は甲斐、顔は太平洋)
貞観以前の富士北麓を整理すると、こうなります。
- 縄文:中部高地文化圏の南縁でありつつ、南関東とも混じる東西の交差点。
- 古墳:東海経由でヤマト文化が甲斐へ流れ込む回廊。湖畔は中継地。
- 律令期:甲斐国の官道が湖の間を貫き、河口湖畔に駅を置く交通の要衝。かつ馬を産する牧の地。
- 平安初期:畏怖される火の山の麓で、遥拝による浅間神信仰が芽生える聖域。
行政上は「甲斐国」に属しながら、文化と物流の重心はつねに駿河・東海・相模といった太平洋側へ開いていました。内陸の甲府盆地(国中)とは少し性格の違う、開かれた境界地帯だったのでしょう。富士五湖はその回廊上に並ぶ「水のランドマーク」であり、貞観噴火はその風景と人の営みを一度リセットした、大きな区切りの事件でした。
ボーリング記録を眺めていて気になった水深という何気ない数字から入って、溶岩・湖底遺跡・古代の道までつながっていきました。剗の海の分割は前から知っていたのに、精進湖の浅さの理由を長いこと取り違えていた、というのが正直なところです。思い込みをデータが一発で覆してくれる、この感じが一番面白かったです。地図の数字の凸凹は、たいてい何かの跡なのだと思います。別の目的で掘られた地面の記録を入口に、こんなところまで来てしまいました。
富士五湖に観光で訪れたときに、富士北麓に住んでいた古代の人たちがそこでどんなものを見たのか、どうやって暮らしていたのかを想像してもらえれば、また違った景色が見えてくると思いますよ。
参考文献・出典
- 静岡大学防災総合センター/富士砂防事務所「剗の海のボーリング調査」(湖面標高894m・水深約70mの復元)
- 静岡大学防災総合センター「本栖湖岸の青木ヶ原溶岩」(本栖湖と精進湖の間に貞観以前の古い溶岩があり、貞観噴火より前に分離していたとの指摘)
- 千葉真一ほか「航空レーザ測深(ALB)による本栖湖湖底の地形計測」(日本写真測量学会誌)(本栖湖は御坂山地の南に富士山の溶岩流が押し寄せてできた堰止湖。湖底に溶岩微地形が水深12.5mまで連続)
- 内閣府防災「1707 富士山宝永噴火」報告書 第1章(津屋1938・吉本ほか2004による富士山の構造断面。先第三紀基盤は海抜ほぼ0m、小御岳山頂2,300mなど)
- 産総研GSJ地質ニュース Vol.9 No.8(2020年8月)(山中湖を堰き止めた鷹丸尾溶岩は延暦19〜21年=西暦800〜802年の噴火。河口湖は約1万年前ごろの成立など)
- 富士山NET「富士五湖のデータ比較」(各湖の湖面標高・最大水深)
- 杉本悠樹「水中考古学」(DIVER誌連載、富士河口湖町教育委員会)/本栖湖底遺跡
- 藤山家徳「富士山北東麓 古忍野湖の地質と化石」(国立科学博物館)
- 小山真人「富士山延暦噴火の謎と『宮下文書』」(静岡大学教育学部)
- 『世界大百科事典』「忍野湖」項(平凡社/コトバンク)
- Wikipedia「中道往還」「甲斐路」「甲斐国」「忍野八海」「池之元遺跡」「富士信仰」
- 富士山本宮浅間大社 御由緒、都良香『富士山記』
- 世界遺産 富士山とことんガイド/富士の国やまなし観光ネット ほか
※ 本記事は地質・考古・古代史の一般向け解説をまとめたもので、年代値や水深などの数値は出典により幅がある。一次資料に当たる際は上記文献を参照のこと。